私の一番好きな作家、安部公房のページです。非現実的な世界を描きながら、いやにリアルであり、官能的でもある。音楽を聴くように感性で読むべし。
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安部公房ほど日本的な作家はいない
ドナルド・キーン


安部公房を非日本的と考える人は多い。ものの見方が大陸的だとする評論家もいる。
満州育ちの安部は、確かに一般的な日本人とは違う。
「我が国の山は青く、川の水は美しい」と書かれた教科書を読んだ小学生の安部は、違和感を抱くしかなかっただろう。
彼がいた「国」には、山があっても青々とした景色はなく、川は汚れていた。
中学生になって日本の古典文学を数多く読んでも、自分との有機的な関係を感じなかったためか、小説家になった後年、日本の伝統的な文学からは何も学ばなかったとそっけなく語っていた。

安部の小説や芝居に登場する人物は多くの場合、名を持たない。
「砂の女」の女は最後まで女と呼ばれるだけであり、代表的な戯曲「友達」の人物たちは、男、婚約者、祖母、父、母、長男としか呼ばれず、日本人かどうかも定かではない。
日本を喚起させるのは、男の冷蔵庫に入れられたカリントウ、鯖の切身、タクアン、梅干だけである。

しかし、観点を変えれば、安部公房ほど日本的な作家はいない。
まず、安部は外国語が出来なかった。十五、六歳までは中国語に堪能で、通訳の資格まで取ったにも拘らず、完全に忘れたという。
十六までしゃべった言葉は、忘れることのほうが困難ではないか。学校で習う英語さえ片言も覚えなかった。
医学部の学生としてドイツ語も学んだはずだが、安部の口からドイツ語の最も簡単な表現すら聞いた記憶がない。
つまりは忘却の天才であった、あるいは、日本語以外の言語を無意識に拒否し続けたと言うべきかも知れない。

反面、安部ほど日本語のあらゆる面に強い関心を抱いた作家はいなかった。
特に、日本語はどこから来たのかという根本的な問題を追求し続けていた。
日本語がアルタイ語の一種と主張する言語学者はかなりいて、古代には日本語と朝鮮語は同じ言語であったという学説、アイヌ語との類似点を重視する学説もあるが、安部はどれも信じていなかった。
日本語とは、祖先のないクレオール語ではないかと考えた安部は、ハワイや南米ガイアナに存在するクレオールを調べ、また、日本人の脳の研究で知られた医科歯科大学の角田忠信教授の学説に非常な関心を示し、研究資金の援助さえしていた。
教授の学説は、日本人が言葉、雑音、音楽、動物の鳴き声を聞く時、他の民族とは異なり、すべて左脳で処理すると結論づける。
中国語から借りた言葉があろうと文法が朝鮮語に類似していようと、日本語は根本的に別の言葉であり、一つの祖先を探すのは無意味であるという。
安部も、日本語はいくつかの民族が長く一緒に生活する中で生まれたクレオールの一種で、新言語であると見ていた。
安部は、決して単なる好奇心からではなく、作家という職業に従事する者が扱う何より大事な言葉を、掘り下げた考察で論じていたのである。
私は安部の直筆原稿を何度か見たが、満足できるまで言葉を変え続け、書き足したり削ったりと、言葉との激しい戦いの跡が残されていた。日本で最初にワープロを使って小説を書いたのも安部である。
言葉に極めて敏感で、無限に書き直す安部にとっては最高の道具だったが、最適と思える表現を得るまで満足せず、原文がすっかり変わってしまうほど手直しすることも珍しくなかった。
評論家はそんな安部の小説を「観念(アイデア)小説」とたびたび呼び、しかし魅力的な文章を褒めることはなく、その手の紋切り型の批評が彼を失望させた。
常に独特の思想が貫かれていた彼の作品は、思想という苦い薬を読者に呑ませるのではなく、思想そのものを越える「人間」という存在を表現したものだった。
そこに気づかない書評を書いた友人と絶交したことさえあった。
安部の小説や戯曲には幻想的な一面がある。例えば「砂の女」に描かれた、砂の穴の中での生活などはあり得ないにも拘らず、正確な描写が読者の常識を覆して、不可能な世界を可能にしてしまう。
そして、どれほど幻想的であろうとも、日本人の深いところを極めて正確な表現で描写するのだ。
その表現には滑稽な一面もある。安部公房の文学は常に悲劇と喜劇の交差点にあって、日本の社会の明と暗を確実に映し出している。

(ドナルド・キーン 日本文学研究者)波2009年3月号より


安部公房の初期作品に「デンドロカカリヤ」という短編がある。
主人公のコモン君は植物に変ってしまうが、それは薬物とか手術によるのではなく、自然に身体が裏返ったためである(コモン君は「壁」のS・カルマ氏と同じように身体の芯が空洞になっている)。
裏返った顔を引きはがして表にすれば、人間にもどることができるが、自然の傾向として起こることなので、植物化の発作にみまわれた時は、「手をすりぬけて、なんとか裏返ってやろうと身をくねらせる」顔を両手でしっかりと押さえつけていなければならない。
植物への変形に身をまかせることは「一種の快感」だが、植物になってしまうと「不幸を取除いてもらったばっかりに幸福をも奪われる」ことになるので、コモン君は植物になるまいと必死に抵抗する。
不幸も幸福もない状態とは物の状態であり、あるいは死の状態だといってもいい(コモン君は「この世に在ることが自殺者である俺だ」といっている)。コモン君が植物になったように、S・カルマ氏も最後は砂漠の中の壁になってしまった。彼らは物の状態――死の状態――にもどりたいという衝迫を身体の深部に宿しているが、同時に、物=死の状態に同化されてはいけないともがいてもいるのである。

おそらく安部公房の作品に特有の逃走のテーマの起源はここにある。
安部公房の作品は逃げるというテーマによって串刺しにできる。「壁」は名前を失った主人公が私設警察に追われて逃げまわる話だし、『砂の女』の主人公が砂の村から逃げようとして逃げきれなかったのはご存知の通りだ。
『箱男』の主人公は世間のしがらみから逃げだして、ダンボールを住処とするホームレスになったし、『燃えつきた地図』のように失踪者を探す探偵が登場しても、最後には探偵自身が失踪者となってしまう。
後期の作品でも、逃げるというテーマは一貫している。
『方舟さくら丸』は核戦争の脅威から逃れるためにシェルターに立てこもろうとする話だし、『カンガルー・ノート』の主人公は生命維持装置付きのベッドに乗って冥府めぐりをするが、賽の河原の場面に代表されるように、追われる者の切迫感が物語の原動力になっている。
未完で終わった『飛ぶ男』も飛びさるイメージが基調となっている。
彼らは必死に逃げようとするが、何から逃げようとしていたかのか? とらぬ狸からか。村の共同体からか。核戦争からか。亡者の群れからか。どう呼んでもいいが、物=死の状態に同化されることから逃げようとしていたことは間違いない。
とすれば、彼らを物=死の状態にからめとろうとする側が存在する。安部公房の作品は逃走する側と物=死の側の戦いの場なのだ。

この観点から見直すと、きわめて特異な位置を占める作品がある。『飢餓同盟』である。
『飢餓同盟』は一九五四年発表の長編で、ドストエフスキーの『悪霊』を下敷きにして、地方都市の未発に終わった反乱を描いており、第一次戦後派の作風に近い印象がある。
そのせいか、安部の読者の間では人気はあまり高くないらしい。安部自身も「類型におちた失敗作」と否定的な評価をくだしている。
しかし、わたしは『飢餓同盟』は初期作品の中では『終りし道の標べに』とならぶ最重要の作品であり、安部の小説の秘密に直結する作品と考えている。
『飢餓同盟』は逃走する側ではなく、逃走を阻止する側から描いているからだ。

『飢餓同盟』はあまり知られていない作品なので、すこし長くなるが、粗筋を紹介しておこう。

『飢餓同盟』の舞台となるのは、花園という田舎町である。
三十年ほど前までは温泉で賑わっていたが、大地震を境に湯が出なくなってすっかり寂れてしまい、今はキャラメル工場くらいしか産業がない。
主人公の花井太助はキャラメル工場で主任という曖昧な地位についていた。彼は表向きは社長で町長の多良根に忠誠を誓い、なんでも屋をつとめていたが、裏では飢餓同盟という秘密結社を組織していた。
飢餓同盟は最初、ひもじい同盟といった。
花園では町に流れてきた他所者は「ひもじい野郎」と呼んで、蔑すんでいた。虐げられたひもじい野郎を糾合してひもじい同盟をつくった花井は、「金は毒、権力は悪、労働は罪」のスローガンのもとに革命を起こすのだと称していたが、具体的な方策はなにもなく、せいぜい町長の多良根の一派と、元町長で医師の藤野の一派をいがみあわせるのが関の山だった。
ところが、二十年前に町を離れた織木が鉱山技師となってもどってきたことで、情況が一変する。
織木の両親も他所者だったが、バス会社をはじめて失敗し、憤死する。孤児となった織木は花井の母親の伝手で東京に逃げ、鉱山技師の資格をとるが、マッドサイエンティストのような所長によって、機械よりも感度の高い人間メーターに仕立てられてしまう。
健康を害した織木は花園に逃げかえり、自殺をはかろうとする。
花井は織木の生命を助ける。織木の人間メーターとしての異能を利用すれば、温泉を復活させ、さらには地熱発電ができるほどの蒸気を噴出させられるだろう。
自分たちの手で地熱発電所をつくれば、町の権力構造を根底からひっくりかえすことだって夢ではない。
ひもじい同盟の目標を見つけた花井は、同盟を飢餓同盟と改称し、地熱発電所建設のために暗躍をはじめる。

このように粗筋を紹介すると、花井は流れ者のリーダーであり、逃走の側ではないのかと思う人がいるかもしれない。
花井自身もそう思いこんでいるふしがあるが、そうではない。花井の生まれた家は、町の境のひもじい峠で、代々茶屋をいとなんできた旧家で、本来は土着の側である。
他所者とつきあっているのは、花井家がひもじい様を祭るという特別なポジションにあったからだ。

ひもじい様とは民俗学でいう「餓鬼憑き」の一種らしい。
山道を歩いてきた旅人は峠に達すると気がゆるみ、急にたまらない空腹感に襲われたり、一歩も歩けないほどの疲労感、虚脱感にみまわれることがある。
昔の人はこうした現象を妖怪のしわざと考えた。地方によって「餓鬼憑き」、「ひだる餓鬼」、「ひだる神」と呼び名はさまざまだが、広く分布している民間信仰である。
花井自身はひもじい様をこう解説している。
「ひもじい様という飢餓神が、いつも町境をうろついていて、外来者をみつけると、すぐにとっついて餓死させてしまう……ね、いかにも農村共同体的な、いやらしい迷信じゃないですか。他所者なら、飢え死にしてもかまわないっていう、陰険な排外主義の合理化なんですよ」
合理的な説明だが、ここで注意したいのは、花園は農村共同体のように閉じてはいないということだ。
花園はかつては温泉で栄えた町であり、外部との交通でなりたっていた。他所者がことさら白眼視されるのは、他所者がそれだけ内部にはいりこんでいたからである。
他所者の力なくしては、花園は立ち行かないのだ。
峠でひもじい様を祭る花井家は、茸の干物を梅酢に漬けた「満腹」、「ひもじい除け」と呼ばれる土地の名物を一手販売する権利をあたえられていたが、このような特権が許されたのは、同家が他所者との交渉において媒介者の役割をはたしてきたからだと考えられる。
花井自身は気がついていないが、彼は人形芝居屋の矢根のような流れ者を新たに町に引っぱりこむ一方、ひもじい野郎たちに革命という希望をあたえて、町にひきとめる役割をはたしている。
特筆すべきはキャラメル工場の社長の多良根との関係である。多良根は今ではすっかり花園町のエスタブリッシュメントの一員だが、もともとは澱粉の一手買附業者として町に乗りこんできた他所者だった。
彼は町に貢献していることをアピールする必要に迫られ、奨学金の提供を申しでる。花園小学校を一年から六年まで主席で通した者がいれば、中学の学費を出し、さらに中学でも主席で通せば、専門学校まで面倒を見ようというのだ。
多良根は該当者はいまいと高をくくっていたが、小学六年生だった花井が奨学金をもらう条件を満たしていたのであわてる。一銭も出したくない彼は、花井にはしっぽが生えているという噂を種に難癖をつけるが、花井が自殺をはかったことで奨学金を出さざるをえなくなる。
花井の方でも意地になって中学でも一番を通し、多良根の金で農業専門学校に進学する。
花井が学業を終えるまでの期間、毎年、学期末になると、地元紙の一面に、優等賞をとった花井と、奨学金を出す多良根がにこやかに並ぶ写真が掲載されたが、裏では多良根は癇癪をおこし、花井は悔し涙に歯噛みするという修羅場が演じられていた。
二人とも気がついていないが、多良根が町の一員として受けいれられる上で、年中行事となった奨学金報道が大きな役割を果たしたことは言うまでもない。
花井は子供の頃から、外部の力を町に呼びこむという媒介者の役割を果たしていたのである。
媒介者という役割が花井の意識を超えたものであることは、織木との関係を見てもわかる。
織木は人間メーターにされるのが嫌で東京から逃げてきたが、花井に説得され、また人間メーターとなって温泉を探査することを承知する。
決め手となったのは花井の姉、里子の思い出だった。
織木は同級生だった里子に思いを寄せていたが、彼が東京に逃げた後、里子は土地の有力者の藤野の弟に手籠にされ、その後、チフスで死んでしまう。
織木が呪うべき故郷である花園にもどってきたのは、里子の思い出に導かれてだった。そして、織木は薄幸に死んだ里子に殉ずるように、死を覚悟で人間メーターにもどる。
飢餓同盟の温泉探査は成功し、花園には再び湯がもどってくるが、成功の果実は多良根、藤野ら、町の権力者に横どりされてしまう。織木は死に、花井はカーニバルの道化王にすらなれずに発狂する。

花園という共同体は食虫植物のように、外部の力を必要としていた。ひもじい様を奉じる家に生まれた花井とその姉は、まったく意識していないが、共同体の奸知にあやつられ、昆虫を引きつけて捕らえる捕虫器のように、ひもじい野郎たちをからめとっては花園の養分にしていたのである。
ひるがえってみると、安部公房の小説には『砂の女』の砂の穴や、『方舟さくら丸』のシェルターなど、食虫植物の捕虫器のような罠がいたるところに仕掛けられている。逃走のエネルギーは捕虫器という湾曲した空間にとらえられ、作品の力場が形成される。
安部公房は前衛的とか都市的と形容されることが多いが、前衛的・都市的なだけだったら、あの希有のリアリティはうまれない。
安部の小説はモダニズムや都市の皮膜を突き破って、土俗的共同体の世界に深々と根をおろしている。
社会の様相がどのように変わり、文学の流行がどのように移ろうとも、人間の社会がつづく限り、安部公房の作品は読みつづけられるだろう。

加藤 弘一


1997年に刊行のはじまった『安部公房全集』がこの3月7日、12年の歳月をかけて完結した。
27巻まではほぼ毎月出たが、28巻から間隔が開き、29巻から最後の30巻までは8年以上かかっている。
しかし、補遺篇が182頁、書誌篇が682頁、さらにCD-ROMがつくという充実ぶりで、8年かかったというのは納得できる。
安部公房のファンであったり、安部公房を研究したいという人で、全30巻の全集を買う余裕がないという人は本巻だけでも入手しておいた方がいい。
近代日本作家の全集としては例のないくらい充実した書誌が図書館から全集を借りる時の道しるべになってくれるし、付属のCD-ROMはほとんどの図書館では貸し出してくれないからだ。
CD-ROMには書誌データのみならず、フォトギャラリー、音声、初版本のすべての装釘、伝記資料の宝庫と言うべき「贋月報」の既刊分がおさめられており、安部公房に関心のある人にとっては必須のアイテムである。
昨今の出版情況からいって、おそらく増刷されることはないと思われるので、在庫があるうちに買っておくことを強くお勧めする。

内容を見ていこう。
補遺篇ではなんといっても新発見の埴谷雄高宛書簡が興味深い。全部で19通あるが、なんと1947年9月7日に出した最初の書簡が含まれており、文学史の一場面に立ち会ったような興奮をおぼえた。
花田清輝宛書簡は2通だけだが、従来、距離ができていたと考えられていた時期に『第四間氷期』の好意的な書評に感謝したり、親しく家を訪ねていたことがわかり、これも興味深い。
この時期はまた共産党との関係が決裂した時期でもあるから、たった2通とはいえ今後重要な意味をもってくるのではないか。
意外だったのは『砂の女』刊行の半年後に映画化のための梗概を書いていたことだ。しかも主人公はアメリカ人であり、細部がかなり違う。映画『砂の女』関係の資料は2007年に開かれた「勅使河原宏展」でも展示されていたが、映画完成までにどのような経緯があったのかを、関係者が健在なうちに誰か調べてくれないだろうか。
書誌篇には詳細な年譜と娘の安部ねり氏による「安部公房伝記」が重要である。
「伝記」では安部公房の祖父母が北海道に出奔した事情にまで立ち入っている。「贋月報」とあわせ読むと、安部公房が実は旧制高校的な友情の人だったことがわかる。
最後の「贋月報」には三浦雅士氏による全力投球の安部公房論が掲載されているが、おそらくこの論文は今後の安部公房研究に長く影響をあたえつづけることになるだろう。
安部公房は1951年に共産党に入党し、1961年に除名されるまでの10年間、共産党員だった。1956年の東欧旅行以降、共産党との関係が険悪化するが、それまではすくなからぬ文学者を入党させるなど熱心に党の活動をおこなっていた。
当然、党活動は作品にも反映していて、マルクス主義を生な形でもりこんだ図式的な作品が目につく。
三浦論文を一言でいうなら、マルクス主義から安部公房を救いだすための試みといえる。三浦氏は十代の安部公房のリルケ体験に注目する。十五年戦争期、日本ではリルケが流行していたが、それは大山定一流のセンチメンタルなリルケだった。
三浦氏は安部の最初期の作品を手がかりに、安部のリルケの読み方が同時代のセンチメンタルな読み方とは一線を画す言語論的な読み方だったことを示す。
安部は後のハイデガー的なリルケ理解を先取りしていたというわけである。
三浦氏はついで中期・後期の安部公房のテーマが言語論的・ハイデガー的リルケ体験の発展にほかならないことを示す。
名辞の剥ぎとられた世界は安部の生涯をつらぬくテーマだったのだ。
こうした展望に置き直すと、安部公房におけるマルクス主義は本質的なものではないことが明確となる。
三浦論文に反発する人も出てくるだろうが、意を同じくするにせよ、反発するにせよ、ここに示された方向が安部公房研究を方向づけることになるのは間違いないだろう。

加藤 弘一





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